・・・どうなってんだ?

秋田県の児童が殺害された事件。あまりにもありえない展開で、その真相が徐々に明かされていくごとに管理人の心が冷えていく。「命」というものをあまりにも勝手な理由で奪っていく最近の事件。成人した大人の常識があまりにもおかしくなっているのだろうか?なんでこんなすさんだ世の中になってしまったのだろうか?
輪廻という言葉をあるページで見かけた。幼い頃虐待やいじめをされた人はそのトラウマから同じことを弱者に対してしてしまうという内容だった。僕も子供の頃は少なからずいじめと言うものを体験したし、いじめるということも体験した。仲間外れのつらさ。そして仲間はずれにしているという罪悪感はそのときの経験から得たものである。
子供の頃は、今のようなインターネットと言うものは無く、ましてやコンピューターなんていうものは研究所や解析機関で使用されているもので、僕が大学生のときに使ったものもマークカードを利用してリーダーで読み込ませ、簡単な計算をする程度でしかなった。
僕のコンピューターに対するメリットは「繰り返し」に対して便利なものと言う程度の認識でしかない。同じ計算を数百数千数万とルーチンの中で繰り返し、最適なデータを得る目的に対しては非常に有効なものだと思っていた。しかし今は情報通信手段として当たり前に普及している。あの頃からすれば(と言っても20年に満たない期間だが)今のPC技術は飛躍的に進化している。その進化にのまれながら生きていかなければならないのだからたくさんのストレスがかかるのは仕方ないと思う。
しかし、以前の暮らしが不便だったかと言えばそうでもない。わからないことがあれば図書館で調べたり、先生に聞いたり、両親に聞いたりと何らかの人との接点があった。そう!何をするにも他人とのかかわりが必要だった。そして、それによって「大人って何でも知ってるんだなぁ・・・」という尊敬の気持ちがあった。
高校生の頃、バイクでツーリングに出かけるためには地図を開いて距離を電卓で計算し、立ち寄る場所を調べたりとアナログな情報から全てを組み立てる楽しみがあった。しかし、今では出発地・目的地を設定すればいとも簡単に所要時間・距離などの情報が瞬時にわかる。まるで007の世界が現実となっている。
欲しい情報は何の苦も無く手に入る時代って凄くかっこよかったし、コンピューターを扱う人はとても凄い人だと思っていた。実際、自分が大学3年のときにNECのコンピューターを買ったときは凄く頭が良くなった気がしたもんなぁ(笑)
でも、それが情報ツールとして機能しだした現在は、他人に頼ることなんて無くなって全ての情報が画面を通して入ってくる。知らない人に話しかけて道を聞くことも無くなった。人とのかかわりがあまりにも希薄になって「人と関わる」という方法すらわからなくなってりるのでは無いかと思う。

人それぞれ自分より優れているところはたくさんあるが、それすらも知らずに時間が過ぎていく。

関わらなければ「自分がよければそれでいい」になるのは当然のことで、他人を理解しようという努力は必要なくなってしまう。
しかし・・・「他人はどうでもいいけど自分はわかってもらいたい」というのが今の時代。他人の痛みを理解しないで自分だけわかって欲しいなんてこんな馬鹿な話は無い。

新潟の犯罪を見聞きするたびに、あまりにも自分勝手な考え方に猛烈に腹が立つ。事故死したと言われている愛娘に対しても子育てを放棄していると判断せざるを得ない。カップラーメン一つ持たせて隣の家に「お湯をください」と行かせていた母。風呂にもいれずフケだらけで撮影した七五三。男が来たら帰るまで家を出され寒空の中一人ぽっちで待たせた母。あの子はどんな気持ちでその時を過ごしていたんだろう。
誰にも頼れる人がいなくて頼るのはお母さんだけで・・・
我々から見ればそんな母親でもその子は大好きだった。お母さんの分の飴玉をもらい嬉しそうに帰宅していたそうだ。。。その事実はあまりにも切ない。あの子は不幸になるために生まれてきたとしか思えない。
考えれば考えるほど怒りがこみ上げてくるし、その無念と寂しさを抱えてこの世を去った子の冥福を心から祈るばかり。

そして男の子は更に身勝手な理由で命を絶たれた。何もわからずに何も知らずに逝ってしまった。
どうなってんだ?ホントにこれでいいのか・・・まだ何もわからないけれど、殺した事実は絶対に消えることは無い。ご両親のこれからの一生は果てしなく深い傷を背負って生きていかなければならない。

大人ってそうじゃなかったよね。少なくとも管理人が知っている大人ってそうではなかった。何の目的も無く人を殺すような時代ではなかった。
「いったいどうなってんだ?何を信じろと子供に教えればいいんだ?」と一人呟く管理人である。